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これまで、いきたい庭について思考してきました。
次は、「つくりたい庭」について。

現実的な「つくりたい庭」は
すべての人が日常で目にしていて、
私し個人として、制作もしているので、
ブログでは、『私考』を書き留めます。


本当に美しいもの、いいものとは?

本当の美ある庭とはどんなものか?
どんなに美しく、綺麗で、見た目にいい庭に出会ったとしても、
その魅力は続かないと思います。
いわゆる、表面的な魅力の事です。

人に例えると、「美人は三日であきる」
これは名言ですね。

本当に「こころ」に訴える庭はどんな庭なのか?
真に美なる庭とは?
木々がきれいに剪定されて、石もきれいで
という空間に真なる美にはなりえないです。

継続的な魅力が、ひきつけられる魅力ある庭となるのです。

継続的な魅力はとはどんなものなのか?
用は実質の問題です。

美しさのための美しさは、結局本当のものではないです。
空虚そのものです。
その空虚なものは決して人のこころを打つことないです。

どんな、文化的価値があろうと、
文化とは?
物質でなく、人間です。
人が創りだす空間が文化。

人を大切にしないと文化はなりたちません。
文化は健康です。
生きているだけですばらいしい。


つくりたい庭。。。
現在、ある庭を畑にしてしまいます。
池の中を畑にして、園路は道。獣道ような空間。
流れは用水路化。

借景や園路からみえる流れや建築への景観が残しながら
畑にする事で、すべて機能的になる。

現在、輸入にたよっている日本です。
輸入がストップした時は?

現代は、本当に便利になった。
食べる物は、その地域にいかなくても食べれる。
ネットなどで観覧する事もできる。

それは、本当にありがたい事。
でも、それは、逆に地域しかない要素をわすれてしまいます。

何でもできると勘違いしてしましう事もある。
その場所でしか成り立たない、様々な要素や関係を
みぬけなくなっているのではと感じます。

輸入にたよらない、日本人(個)を育てる空間をつくる。。


日本の生産は、お米、お芋系が多くなります。
これらを基本に、現在ある池を畑にしていまいます。
庭のもつ動線・視点と、人が文化をつくりあげる空間。

これが真なる美のある空間に。

つくりたい庭。
『畑庭』
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「いきたい庭」シリーズも終盤をむかえました。
現代から時代をほりさげ書き留めてきました。

今回の「いきたい庭」は、縄文時代についてと、
庭についての概念について。

◇縄文時代
今から1万2000年頃前から気候が徐々に暖かくなり、
海水面が上昇していきました。
動物や植物にも大きな変化が現れ、人々の生活にも大きな影響を与えました。
気候の温暖化に伴って、木々は針葉樹から
クリ・ブナ・クヌギなどの実がなる木の品種がでてきました。
それらの木の実を煮炊きする土器作りが始まりました。

縄文時代には、弓矢が使われるようになりました。
これまでは、槍を中心に使用し弓矢は槍よりも速く、遠くまで飛ぶので、
小型で素早い小動物や鳥類をとることもできるようになりました。
植物や動物、魚介類などの豊富な食料に支えられ、
獲物を追って移動する生活から一定の場所にむらを作り、
定住生活をはじめたのです

縄文時代の食料は縄文貝塚に見ることができます。
ドングリ、トチの実、クリ、ヤマイモなどは、
石皿と磨石ですりつぶして、団子やクッキー状に練られました。
そして、魚介類や肉などと炉に設置された
土器に入れて加熱して食べられました。
土器が普及した事で動物の内臓や木の実や魚介類を煮て
スープを作ることができるようになりました。
味つけは主に塩だったと思われます。
炉は、一般的には屋内にあり、食料の調理だけでなく、
暖房や除湿、照明としての役割も果たしていました。


縄文時代の「食住」を認識する事によって、
縄文時代の人々の生活がみえ、
庭がどのようなカタチで存在していたのかを予測できます。

縦穴式住居—地面を円形や方形に掘り窪め、その中に複数の柱を建て、
      梁や垂木をつなぎあわせて家の骨組みを作り、その上から土、
      葦などの植物で屋根を葺いた建物。木の実などの植物を食した。
食についてー動物を狩りにてしとめ、毎回一日で食してたとは考えにくい。
      天日干しなどなんらかの保存方法で、
      食料の保管につとめたと考えられる。
      木の実などは住居の中にある保存場所をきめて保存していた。


庭=敷地内である広さをあけてある地面

庭の意味が、現代では「敷地内である広さをあけた空間」
現代では、人が住む空間の住居が敷きつめられて
敷地に余白がなくなってきている。

縄文時代は、敷地内という概念はない。
敷地とは、そこにみえる空間すべて。

縄文時代の庭は、「庭」現代の庭にあたる場所が、
庭=全景にあたると考えられる。
庭という言葉のレイヤーはなかったといえます


なぜ「いきたい庭」について書きとめてきたのかというと
1. 京都の庭園
2. 庭のもつ意味
を歴史を辿っていくとわかると認識したからです。


これまでの歴史を踏まえて、未来の庭は?
これからツクル庭はどんなものなのだろうか?



いきたい庭(じゅういち)

時代をおって「いきたい庭」を書きとめて来ましたが、
終焉を向かえてきました。
あと残すところは、今回と合わせ2回。

今回は、弥生時代の庭について。

弥生時代は、朝鮮半島南部から九州北部に稲作の技術が伝わり、紀元前4世紀以降日本全国に広まっていきました。弥生時代の人々は水稲耕作を中心に、狩猟、漁撈、採集も併用しながら暮らしていました。また鉄や青銅による金属を用いたり、機織技術もすぐれていった時代です。

関西地区では大阪淀川を遡る水系をたどって広まっていきました。京都ではじめて稲作が始まったのは、桂川流域南部(雲宮遺跡)。それとほぼ同じ時期に、鴨川流域南部でも始まった(鳥羽遺跡)。その後、鴨川を遡るように稲作は広まっていきました。

紀元前2世紀頃になると人々の生活圏は拡大していくようになり、土地や資源をめぐって互いに争うようになっていきます。この時期の京都は、山科盆地の中臣遺跡、稲荷山西麓の深草遺跡、桂川右岸の鶏冠井遺跡など大規模な村落が出現した時代です。その中で最も栄えたのは、引き続き桂川流域南部です。川沿いに大規模な村落が一定の距離間隔を置いて並んでいました。

またこの時代はいくつかの集落が統合され、「クニ」と呼ばれる政治的なまとまりが形成されるようになりました。環濠集落にも強固な防御施設が備えられ、一部には山上に高地性集落も築かれるようになりました。

主な遺跡は、京都盆地北部の植物園北遺跡、烏丸綾小路、柳池中学遺跡、山科盆地の中臣遺跡などで、いずれも大規模なものであったといわれます。

[弥生時代集落跡]
上賀茂、植物園北、北野、二条城北、烏丸丸太町、岩倉忠在地、吉田上大路町、岡崎、堀川御池、烏丸御池、左義長町、中臣、烏丸綾小路、唐橋、烏丸町、上久世、中久世、大藪、東土川、鶏冠井、村ノ内町、山ノ内、西院、西京極、松室、樫原、深草、鳥羽、下鳥羽、桃陵、下三栖、木津川河床、鶏冠井清水、雲宮、暦田、塔、上中太田、上中
(京都市遺跡地図台帳・平成19年発行より引用)


京都の弥生時代の話をしてきましたが、
何か不快感を覚えませんか?

京都といえば、「平安京」というイメージが強いです。
京都は平安京の時代をうたった観光都市です。
なのに、弥生時代の集落も多いいんです。

情報操作?によって観光都市、古都の魅力京都といわれています。

しかし、縄文時代も含み人は住んでいたと思われます。

平安京の時代、いい土地だといって住みだしたのではく、
もっと昔の人が本質的にここが住むにはいいとおもったに違いありません。

現在も弥生時代の集落の痕跡が地中深くに眠っているんです。
清水寺の下には??集落の痕跡があったり、、、


ある大学の先生が言ってた言葉を思いだしまいた。
「京都に古都があるのは縄文からだ」

現代にある庭ができる前の空間をイメージした時
その庭のもつ「場所の特性」がよみとれます。
そういった庭は、きれいな樹木とかいい石とか
以外のよさを導きだします。。。


弥生時代の庭。

自然そのものが庭。

いきたい庭
桂川全域!!



いきたい庭(じゅう)

今回は古墳時代について

古墳時代に庭は存在していたのか?
から始まりますね。

古墳時代の事を認識するには遺跡。
と、いう事で群馬県にある黒井峯遺跡をリストアップしました。
ここは、古墳時代に噴火した火山の灰や軽石で埋まってしまったムラです。

そのため、当時の生活のようすがよくわかります。
軽石の下からは、地面に穴を掘って、そのうえに屋根をかける竪穴住居や
そのまま柱を立て屋根をかけた平地式住居のまわりに垣根をまわしていました。
建物のまわりには広場や畑、そうしたものをつなぐ道もありました。


豪族の家
豪族の家もあります。「豪族居館」
前方後円墳に葬られるような人が住んでいたような豪族。
一辺86メートルの四角の館で、濠がまわります。濠の斜面には石積があり、中にも何重にも柵がまわります。内側には穴を掘ってそこに柱を立て屋根をかける掘立柱建物と竪穴住居が建っています。
これらの建物といっしょに、広場、井戸、橋、石を敷いたまつりの場所などがあります。めずらしいものとしては、銅の品物をつくったときの道具、鉄鍛冶の道具、まつりの道具などが出土しています。


古墳時代には[庭]とよばれている箇所はないが、
広場や畑そして、かこまれた場所(にわ)があります。

個人的想像では、建物以外の場所を庭として、
生活空間と共に、草木や土器を置いて生活に彩りをもたらしていたのでは考えます。


それでは、今回のいきたい庭(じゅう)
アフリカの田舎!!

行った事ないので、想像です。
以下の写真を見比べて下さい。






上の写真は、古墳時代の復元模型。
下の写真は、アフリカの田舎の航空写真。

見比べてもわかるように、同じようなつくり。
復元模型にはなく、アフリカの田舎の住居にあるもの。
囲われた空間の中にある[樹木]などの木々。
よ〜くみると、住居のまわりにも小さな飾りものが。。

復元は、痕跡を元につくりだすので、
痕跡の残らない「庭」プラスαについては復元しないのですね。

でも、人間の根本的考え[自然・人間]の関係は。
現代も古代も変わらないと思います。


[人]と[庭]の関係において原型に近いものを感じます。
「庭」語源である「園」は、「囲われた土地」という意味。
後に野菜や果樹、また草花を栽培している場所に含ませていた。

以下、ブログ ランドスケープ参照
■■■

現代に「古墳時代のいきたい庭」を考えるときは、
海外にいくしかないですね。


シリーズ「いきたい庭」も九回目になりました。

これまで、京都の庭を中心にいきたに庭を
時代をおって書き込んできました。

しかし、「いきたい庭(きゅう)」になり、
飛鳥時代に突入したことで京都の庭は、
記録として存在していない時代になってしまいました。

飛鳥時代の京都は、朝鮮半島や中国大陸からの渡来人が
移住してくる、帰化人の先進的な技術で新しい開発が
進められた時代。
庭はあったのではと?とおもいます。

現代のようなつくられた庭ではなく、
まわりの自然を吸収した風景をつくりだしている
庭があったのだと思っています。


個人的見解はさておき、
飛鳥時代の庭について。。。

庭園が本格的に作り始められたのは、飛鳥時代からと考えられています。
奈良では飛鳥京、平城京の遺構から庭園が発見されています。

飛鳥京跡苑池遺構、
平城京左京三条二坊宮跡庭園、
平城京跡東院庭園などです。
おおきな池泉庭園で、曲水宴が開かれていたと考えられています。
中国の思想、神仙思想(不老不死の仙人が住む神仙境への信仰)
にもとづいて行なわれていました。
この神仙思想は、日本庭園の底流に流れ続け、
のち蓬莱鶴亀形式として定式化されていきました。

このように、飛鳥時代の庭の構成要素が
現在に引き継がれています。




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