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Ken Bukoh
「 いきたい庭(じゅういち) 」
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いきたい庭(じゅういち)

時代をおって「いきたい庭」を書きとめて来ましたが、
終焉を向かえてきました。
あと残すところは、今回と合わせ2回。

今回は、弥生時代の庭について。

弥生時代は、朝鮮半島南部から九州北部に稲作の技術が伝わり、紀元前4世紀以降日本全国に広まっていきました。弥生時代の人々は水稲耕作を中心に、狩猟、漁撈、採集も併用しながら暮らしていました。また鉄や青銅による金属を用いたり、機織技術もすぐれていった時代です。

関西地区では大阪淀川を遡る水系をたどって広まっていきました。京都ではじめて稲作が始まったのは、桂川流域南部(雲宮遺跡)。それとほぼ同じ時期に、鴨川流域南部でも始まった(鳥羽遺跡)。その後、鴨川を遡るように稲作は広まっていきました。

紀元前2世紀頃になると人々の生活圏は拡大していくようになり、土地や資源をめぐって互いに争うようになっていきます。この時期の京都は、山科盆地の中臣遺跡、稲荷山西麓の深草遺跡、桂川右岸の鶏冠井遺跡など大規模な村落が出現した時代です。その中で最も栄えたのは、引き続き桂川流域南部です。川沿いに大規模な村落が一定の距離間隔を置いて並んでいました。

またこの時代はいくつかの集落が統合され、「クニ」と呼ばれる政治的なまとまりが形成されるようになりました。環濠集落にも強固な防御施設が備えられ、一部には山上に高地性集落も築かれるようになりました。

主な遺跡は、京都盆地北部の植物園北遺跡、烏丸綾小路、柳池中学遺跡、山科盆地の中臣遺跡などで、いずれも大規模なものであったといわれます。

[弥生時代集落跡]
上賀茂、植物園北、北野、二条城北、烏丸丸太町、岩倉忠在地、吉田上大路町、岡崎、堀川御池、烏丸御池、左義長町、中臣、烏丸綾小路、唐橋、烏丸町、上久世、中久世、大藪、東土川、鶏冠井、村ノ内町、山ノ内、西院、西京極、松室、樫原、深草、鳥羽、下鳥羽、桃陵、下三栖、木津川河床、鶏冠井清水、雲宮、暦田、塔、上中太田、上中
(京都市遺跡地図台帳・平成19年発行より引用)


京都の弥生時代の話をしてきましたが、
何か不快感を覚えませんか?

京都といえば、「平安京」というイメージが強いです。
京都は平安京の時代をうたった観光都市です。
なのに、弥生時代の集落も多いいんです。

情報操作?によって観光都市、古都の魅力京都といわれています。

しかし、縄文時代も含み人は住んでいたと思われます。

平安京の時代、いい土地だといって住みだしたのではく、
もっと昔の人が本質的にここが住むにはいいとおもったに違いありません。

現在も弥生時代の集落の痕跡が地中深くに眠っているんです。
清水寺の下には??集落の痕跡があったり、、、


ある大学の先生が言ってた言葉を思いだしまいた。
「京都に古都があるのは縄文からだ」

現代にある庭ができる前の空間をイメージした時
その庭のもつ「場所の特性」がよみとれます。
そういった庭は、きれいな樹木とかいい石とか
以外のよさを導きだします。。。


弥生時代の庭。

自然そのものが庭。

いきたい庭
桂川全域!!

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