忍者ブログ
Ken Bukoh
「 いきたい庭(なな) 」
CALENDAR
10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
SEARCH
LINK
COUNTER
アクセス解析
OTHERS
Powered by 忍者ブログ
Templated by TABLE ENOCH


×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

今回は、鎌倉時代の庭について。

少し、鎌倉時代のお話しを。

鎌倉時代になって、建物が寝殿造から書院造に変化するのにともなって、
庭園も変化していきました。
そして、石組への造形が強まった時代です。

鎌倉時代の代表的なものに、南禅寺南禅院庭園。
石組のなかでも、龍門曝(りゅうもんばく)という滝石組が
禅寺を中心につくられました。

龍門曝とは三段の滝を鯉が登っていき、龍と化す、
中国の故事にちなんだ滝石組です。
これが禅寺で好まれたのは、鯉が龍と化すように、
禅者も修行によって悟りを得て変化しなければならないと
考えられたからです。

この龍門曝を創案したのは、
蘭渓道隆→http://ja.wikipedia.org/wiki/蘭渓道隆


そして、夢窓疎石によって広められました。
→http://ja.wikipedia.org/wiki/夢窓疎石



夢窓疎石は鎌倉末期から室町初期にかけて活躍した
臨済宗の禅僧です。
そして、作庭も多く手がけて、室町の枯山水の
先駆け的存在となりました。


今回のいきたい庭【なな】は

夢窓疎石作庭の西芳寺(さいほうじ)通称:苔寺↓


西芳寺のある場所は聖徳太子の別荘であったものを、
奈良時代の僧・行基が寺にしたもの。
当初は「西方寺」と称し、阿弥陀如来を本尊とする
法相宗の寺であったといわれています。

寺伝では、空海、法然などが入寺したと伝えられています。
でも、寺伝は本来の記録かは絶対ではないんですが、
何らかの前身寺院があったものと思われます。

夢窓疎石が、すっかり荒れ果てていた
この寺を禅寺として再興した。
そして、元の名前「西方寺」を
夢窓疎石はこれを「西芳寺」と改めました。


夢窓疎石の墨跡の作品に、
「別無工夫(別に工夫なし)」があります。


「苔寺」の作品と同じ要素を感じます。
夢窓疎石は「別に工夫なし」という言葉通り、
「苔寺」は「苔」を手入れいただけなんです。

龍安寺石庭のように、石の距離や、建物からの見え方など、
「工夫」した作品と違い
お寺のある気候や場所性をいかし、導きだしました。

本来、「庭をつくる」ということは、
場所にあるものを導きだすことだと思います。

その場所にある、「なにか」を導きだした時に、
絶対的な庭「空間・場所」があらわれます。

その、「なにか」を導きだされなかった場所は、
また,新たな手によって、何かをつくりたくなります。


やはり、場所にある魅力をもった庭は素敵ですね。


人間も、個々の魅力をいかしている人が素敵。。。
PR
COMMENTS
TITLE

NAME

MAIL

HOME

PASS
Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
COMMENT
TRACKBACKS
PREV | 42 41 39 38 37 36 35 34 33 32 31 | NEXT
- HOME -
[PR]