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Ken Bukoh
「 いきたい庭(附属いち) 」
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今回は、「いきたい庭」シリーズの附属ブログ。


庭をみるためには、その土地の変遷を識ることが必要です。

そこで、今回は、南禅寺界隈について。。。


なぜ、南禅寺界隈に庭が多いのか?

簡単に、南禅寺界隈の歴史を書き留めます。


江戸時代までは、南禅寺の塔頭寺院が広がっていました。

明治維新後の明治の新政府が、南禅寺に対し塔頭寺院を廃止させ、
土地をとりあげ、新政府の権力を誇示しました。

そして明治時代、天皇や公家の東京移住で、京都は次第に活力失っていきました。

打開するため、産業で活力をとりもどそうとする策として、
琵琶湖疎水をひき、水力発電で財を成そうとしました。

南禅寺界隈は、蹴上発電所の電力を用いた工場用として計画していました。

しかし、南禅寺界隈は風光明婿な土地と認識されたため、
反対が多く、工場を別の場所に移動(高野や山科)しました。

南禅寺界隈の土地の活用が宙に浮いた状況になりました。
南禅寺界隈を園付き別荘として不動産を行う計画が次第に高まりました。
塚本与三次はその人物のひとりです。

京都に庭付き別荘が必要な理由は、大礼が京都の御所で行われるからです。
公家や侯爵や大臣などが泊まるところが必要になりました。
南禅寺界隈の庭付き別荘は、公家や侯爵や大臣などが泊まるには
長期滞在できつなど、最適な場所でした。
また、招待し著名な人々に泊まってもらうことがステータスになりました。

このように、京都の庭は、全国に広がりました。


京都には時代別の庭がたくさんあります。
南禅寺界隈をみれば、明治以降の庭が多くあります。
結果、近代庭園が多いということになります。

歴史背景を識り、もう一度庭をみに行くと
また、新たな庭のかおがみれるのではないでしょうか。。。
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