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Ken Bukoh
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何をもって「いいもの」とするか?
何をもって「だめなもの」とするか?

視点を変え、切り口を変えれば、何事も「よいもの」「わるいもの」
になるのではないだろうか?

しかし、歴史を読み解き時代の流れを正確に読みとれれば、
今何が問題で、何をするべきか読み取れる。
それらを読み取る知識量はもちろん、視点(センス)も必要である。

現在の世の中でも、歴史的価値のないものはたくさん存在する。
しかし、歴史的価値があるのかないのかは
その時代が終わらないとわからないのではないだろうか?
埋もれている歴史的価値。つくられている価値など・・・

現在、歴史的価値のないものはたくさん存在すると思う。
でも、なかには人々に受け、人々に自分のなんらかの刺激や思考を
投げつけている。
それらは、確実に人々のナニカに共鳴し、存在する。
それらは簡単に否定できる話ではなく、肯定できる話でもなく、
そこに何か、人の価値に関する、幹の中になる・・・が
存在するのではないだろうか?

人に受けるという事はそこに何かあるのではないだろうか?
そして、それらは歴史の1ページとして、歴史を読み取る世界として存在するのではなだろうか?


歴史を勉強し、モノをつくりツヅケタ人間にしかその答えはでない。
今の価値で評価したとしても、それは何の価値もないのかもしれない。
自分達で価値があると信じて、つくりつづけるしかない。

小さな場所も含め、より多くの人に聞こえる場所で。

それらを追い続けるには、結果はもちろん、過程をも含む。
過程の中に結果が現れるのか?結果が過程をつくるか?


良し悪しは個人が決める。
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現在、庭園の設計管理の仕事をしている。
現場は京都東山周辺にある植治の庭のひとつである。
設計管理といっても、庭の修復なので、新しい空間を生み出すのでない。
現場の痕跡をもとに設計するのが原則である。

地層や石と石の噛み方、仕事の痕跡をもとに設計をするのだが、
設計する際、痕跡を基準に進めるが、機能性において年月が経ち
手がくわえられているので簡単にはいかない。
時代経て、山の水から疎水の水、そして下水道設置に伴い水量が増え、
州浜が何層にも重なり水止めの高さが変わっている。
まず、新しい施工箇所は当初ではないのでとりはずすのが
原則的な考え方である。
当初でない場合は、除去し、当初のものを中心に全体を構築する。
しかし、当初のものでない上部の石をとりはずした際、水をうけきれず、庭に漏水してしまう場合がある。

ただ、取り除くだけではいかないのである。

これらを設計計画する際は、流れの水の量を想定し、
当初の石を基準に施工するのが、一番妥当である。
しかし、一つの箇所を下げるということは、現状にある空間性は変わり、
他の箇所も設計する必要が伴う。

すべての痕跡が残っているわけでもなく、完全に当初にもどせるわけではないので、全体の風景を読み取れてなければ設計はできない。
周りとの関係、場所の意味、庭の意味、製作者の意図など、現場の痕跡を基準に構築し、それらを踏まえ、現在の空間を展開する頭で設計しなければ、魅力ない庭になる。


これらの考えは、他の設計も同じ要素がある。
建築や道路など物質的に存在するもの。
そして、地域の歴史・空間不陰気などを読み取り、
それらを展開させ場所をつくるのである。

風景全体で空間を想像し、歴史の流れや未来を含め
場所やモノの意味を考え、新たなナニかつくりだすには、
様々な視点を吸収できる考えが必要だと考える。




モノをつくる時何を基準につくりだすか?
という問いがあった。

なにを?もとといわれると、明快にこれだというものはない。

周辺にあるのもの、場所の意味(歴史・表情)などをもとに
そこに、あるべき姿が浮かびあがるのである。
風景をつくり出すとは、周辺との関係からそこに存在するべき
空間を抽出する作業であると考えている。

だから、一概には、「コレ」を基準に空間をつくっている。
ような話はない。

自分が生きているという価値だけでなく、
生かされているという考えで物事を考えた時、
風に流れる葉のように、あるべき姿がみえてくるのである。

しかし、そのような考えだけでは「負」の要素を導き出す可能性も高い。
公害や、戦争など(幅広いが)人間の活動からの「負」の要素を導く可能性があるのである。風景のヨミトリから展開を間違えると、そのような事が起こりうる。


しかし、風景のヨミトリをより正確に導く事が必要である。
それらのヨミトリは、言葉にはできないセカイがあると考えている。
それらは、歴史のなかでツクラレテいった世界だが、それはなんなのだろうか?


大学院時代の講義で、一番記憶に残っている
内容をかきとめようと思う。

古典の授業で、
「一番美しい美人画は?」
との問いにディスカッションをした。

きれいな人。
広大な自然にたつ女性。
裸の人。
老人。
・・・・

様々な意見の元、最終的には
「うしろすがた」

これは、想念の世界観によるもの。
「うしろすがた」は
みる人がそれぞれ、美しい顔を想像する。
個々の理想像をおうことにより、一番美しい美人画となる。

もちろん、「うしろすがた」自体に魅力がないと
その絵のミエナイ部分を想像するわけではないので、
想像させる、もしくは想像したくなる魅力的な絵であるという
前提のもとです。


人は想像の世界をつくる事で、個々に世界を広げる。

そのような作品、そのような空間に魅了を感じる。
そのような人に魅力を感じる。


庭園空間におけるリズム。

石の顔を感じ、石をリズムよく配置する。
背の高さも顔も国も違う人が並んでいるように。

石のリズムは流れをつくり山へ、空へと広がりを見せる。

時に水の流れにそって。
水の流れの速さによって石は表情を変える。
時に流れに逆らう顔をした石。
流れにそった顔をした石。

世の中の流れに対して表情を変える、生き方も違う人間のように。

石の表情、流れと共に、高木低木たちがリズムにのり新たなリズム
をリンクさせる。

そこに歩く人さえもリズムと合有する。

様々な風景のリズムが、様々な距離や時間をかけあわせる。

風・光によりずべてを無限空間へと誘う。


以上は、きれいな空間。
でも、きれいなリズムでの空間は、広がりに限界がある。

感じる事ができないから、、、、
個々の頭の中で感じる事ができないから、、、

個々の頭で、想念の世界を個々が持てる空間を
リズムと共にツクルには???


それはリズムをツクリながら、リズムを崩す事。
広がりをみせながら、広がりを止めること。
広がりにスキマをつくること。

風景全体をミエナイとつくれない。

植冶の庭で感じた風景。。。。





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